先日訪ねた、ある医療系の企業でのことだ。全国に拠点を持つこの組織には、現場のヒアリングを重ねて作り上げた、4種類の専用AIツールが用意されていた。カルテの入力を助けるもの、問い合わせへの回答を下書きするもの、社内マニュアルを検索するもの、SNSの数値を分析するもの。どれも時間をかけて仕上げたものだった。
だが現場を歩くと、その4つはどれもほとんど開かれていなかった。代わりに机の隅で動いていたのは、現場の一人の医師が自分でAIに書かせた、たった数行のプロンプトだった。彼が磨き上げたその指示文は、いつの間にか同僚の医師にも渡り、拠点をまたいで広がっていた。
丁寧に作った側が使われず、勝手に始めた側が広がる。この逆転を、どう説明すればいいのか。
「導入したのに使われない」は、怠慢ではない
経営者の多くが、密かにこの感覚を抱えている。「うちはAIをちゃんと導入したのに、現場が使ってくれない」。これは現場の怠慢でも、経営者の見立て違いでもない。むしろ、驚くほどよく起きる。
世間の正論はこうだ。「まず現場の業務を丁寧にヒアリングし、要件を固め、使いやすいツールに仕上げてから配る」。この順序は筋が通っているように見える。実際、この4つのツールもその順序で作られていた。
だが、その正論を律儀に守った側のツールが使われず、要件も仕様書もない、現場の医師が自分のために書いた指示文の方が広まった。丁寧に作ることは、必ずしも定着への近道ではないらしい。
組織の中にも、リープフロッグは起きる。 以前この場所で、DXの整っていない中小企業ほどAIに一足飛びで移行できるという「リープフロッグ現象」について書いた(周回遅れの会社ほど、AIでは先頭に立てる)。あの現象は、国の通信インフラや決済インフラだけの話ではなかった。一つの組織の内側でも、同じ力学が働く。
なぜ「専用に作った」ツールほど使われなかったのか
理由を整理すると、4つとも構造は似ていた。
- カルテ入力を助けるツールは、出力の型が一種類に固定されていた。医師によってカルテの書き方の流儀が違うため、長すぎる人にも短すぎる人にも合わなかった。
- 問い合わせへの回答を下書きするツールは、過去の対応事例を読み込ませて作ったが、経験の浅いスタッフほど使うと効果が大きいはずなのに、その層自体がツールの存在にたどり着いていなかった。
- 社内マニュアル検索は、資料の在り処をすでに知っているベテランには不要で、必要になりそうな新人にはまだ検索するという発想自体が根づいていなかった。
- SNS分析ツールは数値を読み込ませる設計だったが、現場が欲しかったのは「どんな見せ方なら数字が伸びるか」という助言であり、数字を出すだけでは物足りなかった。
四つに共通するのは、仕様を先に固めたことで、それぞれの現場の実際の使われ方とズレていったという構造だ。一度作り込んでしまうと、後から個別の事情に合わせて直す自由度が失われる。
現場発のプロンプトは、なぜ広がったのか
一方、医師が自分で書いたプロンプトには、仕様書も要件定義もなかった。彼は自分のカウンセリングを録音・文字起こしし、AIにフィードバックさせるという使い方を、まず自分のために始めた。うまくいった書き方を少しずつ直し、同僚に頼まれて共有し、気づけば拠点をまたいだ一種の「型」になっていた。
当初のツールが対応していなかった機能についても、現場の側が汎用のAIを使って独自に組み上げていた。誰かが許可を出したわけではない。使える道具を渡されたら、足りない部分は自分たちで埋めた、というだけのことだ。
組織を率いる立場の人は、この変化をこう体感で語った。数年前は、拠点のスタッフのうち「10人に1人」がAIを時々使う程度だった。それが、この1年半ほどで「ほとんど全員」が日常的に使う状態に変わったという。きっかけは、部門ごとに専用のツールを段階的に配ったことではなく、外部の研修を使って全社員に基礎的なAIの使い方を一気に教えたことだった。
BYOAIという世界的な構造
これは、この組織だけの特殊な話ではない。Microsoftとリンクトインが2024年5月8日に公開した「2024 Work Trend Index Annual Report」によれば、AI利用者の78%が、会社の許可や支給を待たずに自分でAIツールを仕事に持ち込んでいる(BYOAI = Bring Your Own AI)。中小企業ではその割合はさらに高く、80%に達するという(Microsoft公式「AI at Work Is Here. Now Comes the Hard Part」)。
世界中の職場で、会社が正式に用意した道具より、社員が自分で選んだ道具の方が先に使われている。これは統制の失敗というより、現場が最短距離で価値を出そうとした結果だと見るべきだ。
Microsoftは2026年6月29日に公開した別のレポートでも、中小企業がAI活用で大企業を先行している構造を報告している。完璧な戦略資料や大きな変革予算を待たず、目の前の課題を今ある道具で解決し始めている中小企業ほど、AI利用者の58%が「1年前にはできなかった仕事が今できている」と答え、66%が「より付加価値の高い業務に時間を使えるようになった」と答えている(Microsoft Cloud Blog「Small and medium businesses aren’t waiting for an AI invitation—they’re already leading」)。
段階を踏んで整備するより、道具を渡して現場に委ねる方が速い。大企業が何年もかけて行う情報システムの標準化という「旧インフラ」を、中小企業は丸ごと飛び越えられる。以前書いたリープフロッグの構造が、ここでも繰り返されている。
前提と反証
ただし、何でも野放しにしていいわけではない。この現場でも、患者の情報を扱う以上「勝手に使われる」ことへの懸念の声は実際にあった。BYOAIには、データがどこに送られ、どう扱われるかが管理側から見えなくなるという副作用がある。医療・金融など、記録や監査証跡が法令で求められる業務では、野放しの利用がそのまま重大なリスクになりかねない。
だから正確に言うべきは、「作り込むな」ではなく、「作り込みより先に、基礎的な使い方と最低限のガードレール(何を扱ってよく、何を扱ってはいけないか)を全員に渡す方が、定着は速い」ということだ。ガードレールを最初に示した上で、現場の工夫に任せる。この順番を間違えなければ、リープフロッグは機能する。
現場に入って何十社かのAI導入を見てきて、時間をかけて作り込んだツールほど、その仕様に縛られて実際の使われ方とズレていく、という実感がある。ルールを先に完璧に整えようとする姿勢は、「データが片づいたら」という前提を待つ姿勢と、根っこは同じところにある。
助走を完璧に仕上げてから走り出そうとする選手は、その助走の途中で号砲を聞き逃す。
自社でこれを試すなら、大きな投資はいらない。来週、一つの部署の一人に、汎用のAIツールのアカウントと、扱ってよい情報の範囲だけを渡してみてほしい。専用のシステムを作り込む前に、まず現場に委ねてみる。それだけでいい。
自社は今、丁寧に作り込む側にいないか。それとも、現場に委ねる側にいるか。
自社がどちらの段階にいるかを確かめたい方は、無料のAI活用診断から始めてみてほしい。



