FDE 2026.08.11 公開 ・ 読了 4分

AIは簡単だった。難しいのは、『定義』を合わせることだった

サプライチェーン領域でフォワード・デプロイド・エンジニア(FDE)として働くエンジニアが、率直に書いている。「AIの部分は簡単だった。本当に大変だったのは、社内の誰も合意していなかった『定義』を1つずつ固めることだった」。ミラノを拠点とするアパレル企業でのプロジェクトの記録は、AI導入の難所がどこにあるかを、業務の粒度で見せてくれる。

何が起きているか

サプライチェーンの効率化を専門とするエンジニアSamir Saci氏が、Towards Data Scienceに投稿した記事(2026年8月3日公開)によれば、氏はミラノを拠点とするアパレル企業の物流部門で、配送遅延の原因を分析するAIエージェントの実装に携わった。着手して最初に判明したのは、「発注した配送日」と「実際の配送日」という2つの日付を比較するだけのパイプラインづくりに、社内チームがそれまで18ヶ月をかけていたという事実だった。原因は技術力ではなく、社内の計画システムに残るHEUR_DTSやMANU_DTSといった暗号のようなフィールド名を、誰が何のために作ったのか誰も正確に説明できない状態にあったことだ。1つのフィールドが本当に「注文作成日時」を指しているかどうかを確認するだけで、数日を要したという。

さらに、「時間通りにトラックへの積み込みが完了したか」を示す、たった1つの真偽値(フラグ)を業務側と合意するために、Saci氏は5回のワークショップを重ねている。自社便による配送か、運送会社による集荷か、その集荷時点で商品が準備できていたかどうか——3つのシナリオそれぞれで「誰の責任か」の基準が違うため、単純な条件分岐では現実の業務を表現できなかったからだ。

Saci氏は自身の役割を、「AIモデルや最適化アルゴリズムを、企業の『ぐちゃぐちゃな現実』の中で実際に機能させるために、企業のオペレーションの中に入り込むエンジニア」と定義している。実際にClaude Opus 4.8を業務データベースに接続し、使えるツールとして整備する作業自体は5日もかからなかったが、そこから現場のチームが日常的に使える状態にするまでには、さらに何週間もかかったという。

背景と構造

なぜAIモデルをつなぐ作業より、定義を合わせる作業の方が時間がかかるのか。理由は単純で、AIが返す答えの精度は、渡されるデータの定義の精度を超えられないという構造にある。「ぐちゃぐちゃな現実」の大半は、技術的な難易度の高さではなく、部門をまたいで長年積み重なってきた業務上の合意不足でできている。誰も悪意を持って項目名を曖昧にしたわけではない。担当者が異動や退職を繰り返すうちに、意図だけが失われていく。

この構造は、企業の規模を問わない。むしろ、社内に業務の背景を知る人が限られている中小企業ほど、「なぜこのフィールドはこう定義されているのか」を確認できる相手が少なく、定義合わせに時間がかかりやすい。AIエージェントを導入する前に、まず自社の業務データの中にある「暗号のようなフィールド」と、それを知っている担当者が誰なのかを洗い出しておく必要がある、ということだ。

日本の中小企業にとっての意味

日本の中小企業の現場でも、同じ構造の壁に何度も出会う。基幹システムやExcelの中に、担当者の異動や退職とともに「なぜそうなっているのか誰も説明できない」項目が積み重なっているケースは珍しくない。AIエージェントを導入する際、最初に着手すべきは新しいツールの選定ではなく、現場に座り込んで「この数字はどこから来て、何を意味するのか」を1つずつ確認する棚卸し作業だ。以前の記事で書いたとおり、AI導入がPoCで止まる原因の多くは「作る人」と「使わせる人」の分断にあるが(AI導入の95%はなぜPoCで止まるのか)、Saci氏の事例が示すのはその一歩手前、そもそも「何を測るか」の定義そのものが揺れているケースの多さだ。

現場に入り込んで多数の実装に伴走してきた実感としても、「AIを入れたい」という相談の多くは、実際に着手すると「まず社内の言葉の定義を揃えるところから半年かかった」という展開になる。それは失敗ではなく、順番として当然のことだ。

最初の一歩

自社の業務データの中で、「この項目、実は誰も正確な定義を説明できないかもしれない」と思うものを1つ、来週の会議で担当者に聞いてみることから始めたい。

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参考記事

A
坂田 裕希株式会社Areeena 代表取締役

広島出身。東京大学法学部卒。三菱商事を経て、2015年にD2Cブランド HANDEN を立ち上げAmazonカテゴリ1位を獲得、2021年に事業譲渡。2022年に株式会社Areeenaを設立し、2023年より生成AI事業を開始。日本FDE協会を立ち上げ、中小企業の現場でFDEとしてAI実装に伴走している。

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